本当に壮絶な9日間のキャラバン生活だった。馬と空と大地と遊牧民、そしてともに旅をした仲間たち。2年ぶりに馬に乗って草原を旅した。 学生だった自分と社会人になった今の自分を重ねながら旅をした。キャラバン生活は、常に真剣勝負の連続。手綱を握りしめながら馬との葛藤。自然の厳しさを全身で受け止る。 逃げ場のない毎日。社会に出てふと草原から振り返ってみると、 難しいけれど、実はたくさん逃げ道やごまかしながら生きていたことに気づく。
キャラバン当初2年前のように馬を思い通りに乗りこなせないことに、こんなはずじゃなかったと自身と馬との衝突の毎日。情熱をいつの間にか失っていた自分に気づかされた。馬には見抜かれていた。いつの間にか馬に立ち向かうだけ情熱を失っていた自分を。ごまかしながら生きていた自分を。日本に帰ってもっと目の前のものに立ち向かわなくてはいけないこと、真剣勝負から得る大切さを感じた。草原は非常にシンプル。本当に大切なものしか存在しない。
クレイジーになりたい。
この旅は何もかもすべてのことが、クレイジーだった。
馬で4日間で120kmも、必死になって走りきること。
360°何もない水平線。空の大きさ、色。すべてが大きすぎて、美しすぎる大草原。
現地の人のたくましさ、陽気さ、やさしさ。
ここでは五感で感じるすべてのことが、クレイジー。
このクレイジーさは、すべてが、効率よく、便利でありすぎる日本では決して感じれない。
人間の限りなく単純で純粋な感覚と欲求を得ることができた。
疲れはてた時の、水や、スイカ、ご飯のおいしさ。
寝ることの豊かさ。走り終わったあとの達成感。
仲間や現地の人と笑うことの楽しさ。
すべてが当たり前の感情ばかりだけど、1つ1つが今まで感じたことのない新しいものだと思った。
当たり前であるけれど、今の日本では決して味わえない感動。
この旅のクレイジーさは、忘れていた人間の大切な思いを、ひき出してくれた気がした。
そんな人にとって大切な、感覚や欲求や思いをあたえられるようなクレイジーな男になりたい。
それが、この旅で得たたった1つの思い。
この思いを共に共有できた、クレイジーな仲間たちにも感謝したい。
ピース。
乗馬や、草原でのゲル生活は思っている程楽ではない。乗馬は最初の内、脚や尻が痛くなり、ゲル生活はもとより文明の恩恵が受けられない。しかし、その苦労を乗りこえ、鼓舞するのは、ゆるやかな起伏を伴い、果てしなく続く大草原、動くものはほぼ50騎余の我々の騎馬隊のみ。草原に影を落とし、時に歩き、時に疾走する、この快感は筆舌に尽くしがたい。私は、いつのまにか頭が空っぽになり、天と地、草原を吹きぬける風と全身で対話していたように思う。帰国後仲間に言われた、「どこか変わったね!」と、自分ほど開放的な人間はいないと思っていたが、それでもどこかに垣根があったらしく、それがとれたということらしい。
奔流中国の企画は、別の世界があることを身をもって気付かせ、そして異文化に入るには、当然チャレンジ精神が要求され、それを持つことの大切さを教えてくれたと思う。そして副産物と言うにはあまりにも大きな、新たな人の輪を作ったようだ。それが証拠に第三陣のメンバー内でいまだにメールが飛び交い、薄らぐどころかますます絆を強めつつある。私はどこに向かって走っていたのだろう?
僕が人生の中で、最初に抱いた西域の景色はどんなものかと問われれば、漢詩にある“馬西來欲到天、辭家見月兩囘圓。今夜不知何處宿、平沙萬里絶人煙”(直訳:馬を走らせて西へ來り 天に到らんと欲す家を辞してより月の両回円かなるを見る。今夜は知らず何れの処にか宿せん、平沙 万里 人煙絶す)を挙げます。Great Caravanでは、月の二巡りには至らなかったけれど、三日月が満月にまで至れるほどの果てしない道を、馬で走った。その日の宿泊地がどこなのか全く知らないまま、ただ西に向けて走り続けた。今、どこにいるのか。地平の彼方まで広がる大地の上に、人家など全く見えなかった。まさに、漢詩の世界を僕たちは走ったのだと感じます。唐の詩人が征った世界を走る。
僕たちは歴史そのものを走っていたのだと強烈に思います。オロンスムでは、数百年前の、幾万の人々が行き交った跡を見ることができました。ですが、そこまでの道程、道ばたのただの石くれにも、数百年前の人々の息吹と痕跡を感じることができたと僕は思っています。全てが歴史であり、自分たちもその後を続くキャラバンの一人なのだということですね。天に至るのではないかと思えるほど馬を走らせた古代の人々に、ほんの僅かでも近づくことができたのではないか。そう思える旅ができたことを、本当に誇りに思います。
これで、3年目になる乗馬。乗馬に関しての思いいれはとてつもなく変わった。
初めての時はただただ“乗る”ということに集中していた。2年目には、少しでも“乗りこなす”ことに集中した。しかし2年目では、馬に暴れられてしまったり、蹴られてとてつもない痛い思いをし、馬という生きものの優しさと気高さにひそむ、恐怖を初めて知った。
そして3年目は、初めからその恐怖心のために緊張してしまい、馬に対する余裕と思いやりを見失ってしまった。しかし徐々に馬という精神的開放に生きることの悦びと、世界のすばらしさを感じた。
初めて落馬したが、そこには全く苦痛はなく、むしろ気持ちがよかった。落馬自体がとても危険なものであることも知っているし、落馬するのは自分の不注意であることもわかっている。
落とされてもすぐ笑顔で、すぐ馬にまたがりたかった。何となく、馬に申し訳ないような気がした。
3度の乗馬で馬と一体になるということを心から実感できるようになった。
馬は“乗る”もので“乗りこなす”ものであるかも知れない。しかし、現地民たちの馬への愛情と厳しさ包まれながら砂にまみれ、風を切り、大地を駆け、世界の広さを知るにつれて、乗るというよりは、一つになる、共に駆けるという感覚のが正しいと思える。
奔流の旅で、最も心に残ることばは、日本人は他人に何かをやってもらうことをあたりまえだと思いすぎているという言葉。モンゴル民族は、何かのためや、自分のためという狭い生き方をしていない。彼らはこの世界と共に生きているし、世界や自然がどんなものなのかを知るために生きている。日本人のように自分たちのつくったシステムのなかだけで、自分のことばかり考えて毎日を過ごしている人間にはない気高さがある。
私はその精神力を、少なからず、吸収できたのではないかと感じている。
すると不思議と自分にも何かができるのではないか、何かしなければいけないのではないかという感情が昂ぶってくる。私は奔流スピリットを胸に短い人生を駆け続けたい。