高昌故城

市の東40km、火焔山南麓にある5~7世紀頃に栄えたウイグル族・高昌国の城塞都市遺跡。1.5km四方の正方形に近い敷地に日干しレンガ造りの王城や 寺院などが残っているが、現在は風化によって廃墟のようになっている。玄奘三蔵がインドに向かう際に招かれたが、インドからの帰りに立ち寄った時はすでに 滅ぼされた後だったといわれている。 その歴史の始まりは、三国時代、中国から戦乱を避けて高昌へと移り住むものが多くなり、北涼の王族・沮渠氏が車師国を滅ぼして、450年に高昌国を立て る。この高昌国は柔然に圧迫されて滅び、その後は北方民族(柔然・高車・突厥)の影響下の元に闞・張・馬の四氏が王となり、498年に麹嘉(きくか)が高 昌王になり、640年に唐に滅ぼされるまで続く。  高昌を征服した唐はこの地に安西都護府を置いて西域経営の拠点とした。唐の国力がこの地方にまで及ばなくなる9世紀になると天山ウイグル王国の支配下に 入り、夏都とされた。  モンゴル帝国の征服後にはチャガタイ・ハン国に領有され、分裂後は東チャガタイ・ハン国の領有となる。 チャガタイ・ハン国が弱体化しティムールに支配されるとその支配下となったが、1500年にシャイバーン朝によりティムール朝が弱体化すると、再び東チャ ガタイ・ハン国(モグーリスタン・ハン国)の支配下となる。1514年にチャガタイの末裔がカシュガルでヤルカンド・ハン国がを建てると、1679年まで その支配下となった。  高昌に代わってトルファンの名前が流布し始めたのは明王朝の時代。その意味はウイグル語で「くぼんだ地」を意味する。 清代にはジュンガルとの間で争奪戦が行われ、清が勝利する。19世紀、イギリスのスタイン探検隊や日本の大谷探検隊がこの地に入り、出土品を持ち帰った

その中でも文献群は敦煌文献と並んで貴重であり、西域と古代の研究に大量の史料をもたらした。

 

高昌故城